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第31章 附录二『論語物語』—『論語』を巡る日本の近代文学創作(1)

はじめに

近代の日本文壇に現われた『論語物語』は、中国古代典籍『論語』を底本として創作された作品である。その作者の下村湖人(1884-1955)と言えば、最も広く読者に知られているのはその自伝体教養小説の『次郎物語』であろう。初めて刊行された1941年から80年代末期までの50年間の間に『次郎物語』と言う名前で作られた映画やテレビ番組が跡を絶たなかったことからも、[1]その影響力の強さが伺われる。しかし『次郎物語』が盛大に評判されたことに比べて、『論語物語』は余り世に知られていなかったようだ。その理由は下村湖人自身もよく理解できず、ただ残念に思っていただけであった。[2]筆者がその作品に気付いたのは近年進めていた日本における『論語』受容史に関する研究と大きく関係ある。1938年に完成されたこの『論語物語』に対し、下村湖人は実に大きな心血を注いだが、ある意味では『次郎物語』の輝かしい成功は、『論語物語』の創作から積み重ねた厚い蓄積によって成就されたと言ってもよい。

『論語物語』は、下村湖人が孔子及びその弟子のために書いた伝記である。この『論語物語』において下村湖人は28の物語を通して『論語』に記載した孔子とその弟子たちの事跡を巧妙に整理、排列し、小説としての創作を完成した。苦心の作として『論語物語』は、作者が現実生活の経験との対照から理解した孔子と弟子たちの精神的世界を、真実のままに書き表わしたと同時に、『論語』と近代の日本文学創作との関連を考察する際の大事な手本ともなっている。

一、下村湖人の生命歴程

1884年、下村湖人は次男として日本佐賀県神崎郡千歳村に生まれ、本名は内田虎六郎だった。下村湖人の祖先は鍋島藩の武士で、廃藩置県の後、家が没落し、下村湖人が生まれて間もなく里子に出されたが、後ほど又当地の名門である下村家の養子となったので、名を下村虎六郎に改名された。4歳の時に下村湖人が実家に戻り、母親の下で5年間暮らしていたが、10歳の時に又母親に死に別れた。永杉喜輔が書いた『下村湖人伝』によると、下村湖人の母は名門の出身で、学問をよく知り道理をわきまえ、繊弱で淑やかな女性であったが、[3]このような母親を失い、下村湖人の成長にとって大きなショックであったことは言うまでもない。幸い武士の子として生まれた彼の父親が漢学の達者で、下村湖人は幼い頃から父親に『論語』などの漢籍の書物を教わり、漢学に対する最初の趣味を覚えた。

14歳の時(1888年)、下村湖人は佐賀中学校に入り、漢学の大家である吉岡美標について『論語』を学んだ。19歳の時、彼は第五高等学校(熊本)に進学し、野口勝太郎を師として漢語の勉強を始めた。当時第五と第三高等学校で英語教授を担当した厨川白村氏は英国文学の研究家として若者たちの中で大きな声望があり、その影響で下村湖人はそれまでの漢学研習から英文学の勉強に志向を変えた。

1906年、22歳となった下村湖人は東京大学文学科に入学し、英国文学を専攻した。当時イギリス留学から戻って来たばかりの夏目漱石氏が同大学の英語教師を担当し、「18世紀英国文学」や「オセロ」などの課目を開設したが、下村湖人はココで夏目漱石の講義を受けた。この期間の勉強は下村湖人の文学創作及び文芸理論の確立に最初の基礎を打ち築いた。

東京大学を卒業し、下村湖人は1年間の兵役に服して故郷に帰り、佐賀中学校の英語教師や鹿島中学校、唐津中学校校長等を務めた。学生時代の学問指向が東方文化から西方文化へと転換したと言えば、就職後の下村湖人は時局の変化に応じて再び中国関連の分野に戻った。1925年6月から1931年9月までの6年余りの期間、下村湖人は当時日本の植民地であった台湾に派遣され、台中第一中学校校長、台北高等学校首席教師と校長を勤めた。[4]台湾から日本に戻り、彼は教職を辞任して社会教育事業に身を投じた。1932年に、大日本連合青年団から委託されて青年団指導者養成所で勤労青年に対する教育訓練の仕事を担当したが、翌年青年団講習所の所長となった。1937年、下村湖人は講習所所長の職を辞去し、教育界から離れてその後半生の自由講演と文筆活動の生涯を始めた。

二、下村湖人の詩歌創作と文学評論

下村湖人は学生時代から教職員時代にかけてずっと詩歌の創作を続けていた。時代から言えば、その詩歌創作が主に学生時代に集中し、和歌の創作は台湾赴任の期間を中心に展開した。その詩歌創作と肩を並べるものといえば、彼が書いた詩歌論と文芸理論の文章であった。

1901年、下村湖人はその詩歌創作で文壇にデビューした。当時17歳で佐賀中学校の三年生だった。「内田夕闇」の筆名で投稿した彼の詩歌は尾上柴舟や蒲原有明などの名高い詩人の詩作と一緒に『新声』、『文库』、『明星』など当時一流とも言われる雑誌に載せられたので、下村湖人は大いに注目され、そして佐賀中学校校友誌『栄城』の編集委員に選ばれた。19歳の時、下村湖人は第五高等学校の文科学生として、東京帝国大学の「帝国文学」にその長詩『ちかひの虹』を発表して一挙に名を知られた。その後、彼はたくさんの文学雑誌に多くの作品を次々に発表し、詩歌の創作に大きな成果を挙げた。

詩歌創作と同時に、下村湖人は数首の和歌を創作し、詩壇に登った最初に、彼は偶に「内田夕闇」の筆名で和歌を投稿し、偶々発表されたこともあった。大学を卒業してから、様々な事情により、彼の詩歌と和歌の創作が一時に低落したが、台湾赴任になってようやくその創作意欲が蘇えった。台中第一中学校校長を務めた時、下村湖人は「あらたま社」という短歌会を知り、そして会員に招かれた。この期間の彼の様子については、永杉喜輔が書いた『下村湖人伝』の中で詳しく記載している。これをきっかけに、彼の創作風格が一変し、それまでの精巧繁雑で杓子定規な風格から流暢閑雅で分り易い風格に変わった。[5]台北高等学校に転職してから、空間的距離が近くなり、下村湖人と「あらたま社」との関係がいっそう緊密になった。そして台北高等学校に「台高短歌会」という和歌の団体があり、会員は殆ど学生で、当時校長を務めた下村湖人は直ぐにその仲間入りをした。「台高短歌会」はより豊富で多様な歌風を持つ和歌会であり、万葉風、自由律、俳句などあらゆる形式の和歌が揃っている。この「台高短歌会」を基盤に下村湖人の歌人としての情熱が何の拘束もなく弾けた。「私にとっては、この歌会はある意味では、実にあらたま社以上に、私の作歌意欲をそそる事になったのである」と下村湖人はそう認めている。[6]彼にとっては、台湾にいた期間は自由自在に詠える時代だった。しかしこの時期に彼が創作した和歌はどの流派にも属しないため、なかなか出版されなかった。1933年になって親友の田澤義鋪の新政社から協力されてやっと『冬青葉』という詩集を刊行することができたが、「湖人」という筆名で発表された『冬青葉』は下村湖人が世に残した唯一の歌集であった。

詩歌の創作に伴なって下村湖人は創作理論の探索にも励んでいた。その文芸理論に関する書き物の中で彼の一貫とした文学観を記述している。深川明子がその評論文において「下村湖人の詩歌作品思想では彼の倫理観と道義観が重要な位置を占めている」と書いたが、[7]実に的確な評論であった。下村湖人の最初の詩歌理論文章は1903年に第五高等学校校友誌『龍南』に発表した『詩の勢力と道徳の勢力』であったが、その文章において下村湖人は彼の文芸論の中核的観点を提出し、社会の発展を推進する中で詩と道徳それぞれの役目を論述した。彼はこう書いた。

吾人は詩と道徳との調和を希望せざるを得ず。詩人、文士が、文学的の見地のみよりみて、写実を標ぼうし、恋愛を歌う可なり。然れども世もし人類の発達を願い、社会の完璧を希うの士あらば、願くば少しく其作物に道義的観念を加味せよ。道徳的理想を寓せよ。世の指導者、道徳家が、ただ道徳の根本的見地より見て厳乎壮重の態度をとるは可なり。然れども其の教化を速かならしめ、其勢力を強盛ならしめんと欲せば、少しくこれに文学的趣味を与えよ。詩の情熱宿せよ。」[8]

下村湖人にとっては、詩は感情的色彩に富み、人間の心を一挙に掴む力がある。社会の更新と進歩に対して詩歌は強い推進作用を発揮できる。一方道徳は理性的なもので、一瞬で人間の心を掴むのが無理だが、社会を長期的に規制し健全に治めることに利用することができる。だから詩と道徳との有機な結合は一番理想的であると、彼が考えている。この論文に継いで下村湖人は又『生命と勝利』(1904)、『大八洲国の詩的時代を追想して現代の文芸に及ぶ』1905)などの詩論関連の文章を発表し、生命に対する尊重と礼賛を謳うと同時に、「思想なし修養」の愚痴を強く批判し、詩歌の精神を大きく発揚すべきと主張した。これらの文章では、彼が詩人としての詩歌創作への理論思考を集中的に表わし、「思想なし」道徳観を非難すると同時に、観察の目指しを当時文壇を主宰していた自然主義文学に向けた。

20世紀初期、日本近代史上の明治時代から大正時代に移り変わる時期であり、近代日本文壇が最も活発した時代でもあった。特に明治の末期に、自然主義流派がその真っ盛りを迎え、代表的な作家、作品及び評論文が数多く現われていた。自然主義文学運動の最前線を切り開いた田山花代が書いた『蒲団』(1907)、『生』(1908)、夏目漱石から「明治時代で最もものらしい小説」と賞賛された島崎藤村の『破戒』(1906)などはこの時期の代表作であり、自然主義文学論を標榜し、自然主義文学作家の創作に理論的礎を支えた島村抱月、岩野泡鳴なども大いに活躍していた。一方、この時期に独特な文学観をもって自然主義と対抗する文学流派も現われていた。『帝国文学』は当時の文壇と論壇で共に一流と言われる刊行物として断固として反自然主義の旗を掲げた。明治末期の1908年(明治41年)、東京帝国大学英国文学部3年生となった下村湖人は、『帝国文学』の編集委員に選ばれ、その『帝国文学』をより広い意味での文学評論を展開する舞台とし、彼と自然主義文学の旗本である岩野泡鳴との間で激烈な論戦を繰り広げられた。1909年、『帝国文学』は『全自然文学論』を題とした下村湖人の長編評論文を発表し、この文章において下村湖人は自然主義文学の浅薄な写実手法を批判すると同時に、自分の観点をより鮮明に主張した。彼は、体系的且つ哲学化の文芸理論を樹立し、理想主義と自然主義との統合を図るべきと強調し、そして文芸の終極的目的は「全宇宙人生の綜合統括にほかならないぬ」という観点を明確に提出した。[9]この「綜合的統括」という表現は、以前彼が『詩の勢力と道徳の勢力』の中で語った「文学と道義との関係」に対する再解釈であると見受けられていた。

詩歌理論から形成された文学観は、下村湖人の詩歌創作の基調に直接的影響を及ぼしただけではなく、彼の後日の文学創作の全体的指向を決定した。これは『論語物語』の創作においてよく具現されている。

三、『論語物語』——『論語』を巡る創作

1938年、講談社の月刊『现代』での連載により、『論語物語』は始めて世に出た。[10]同年、講談社がその単行本を出版したが、その後は『論語物語』が多くの出版社に相次いで刊行された。下村湖人はその創作生涯において『論語物語』と関連する作品を幾つか書いたが、『次郎物語』が『論語物語』の後に出版され、その前に『凡人道』が出版された。『凡人道』は『論語物語』と深い内在的関連を持った有名な作品であった。

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